ケチャップを飲むということ
ブログを始めて5日、ついにネタが切れてしまいました。あまりにも早すぎる。
そもそも楽しくなるためのブログなので、できるだけ楽しい記事を書きたいのですが…。
実は自分、かなりのネガティブで、すぐ落ち込みます。先日は風呂場で自傷を図り、くつろぐはずのバスタイムが一変、B級スプラッタ映画のようになってしまいました。興行収入200円が関の山でしょうか。
賢い読者の皆さんはもうお気付きでしょう。そうです、今日はケチャップについて書きます。
昨日、自分の頭は「オムライス食べたい」という感情に支配されておりました。“虚無ライス”という言葉を添え、オムライス画像を上げていたフォロワーさんの影響です。虚無ライス。
個人的にオムライスの良さというのは、その分かりやすさにあると思います。卵の優しさとケチャップの酸味、そして赤い赤いケチャップライス…非常に分かりやすい。料理における分かりやすさとは、とても重要なポイントです。どんなに高級な1品でも、“分かりにくい”味であれば、楽しむことができません。
という訳で食べてきました。
中野ブロードウェイ前を右に曲がると、所狭しと飲食店が並んだ通りがあります。そこを更に進むとハヤシライス専門店である“ハヤシ屋 中野荘”さんが!
ハヤシライス推しのお店ではありますが、しっかりオムライスも置いてあります。
銀の食器がカワイイ。
真っ赤なケチャップ!トロトロ系の卵の中には、真の主役であるケチャップライスが。
私のオムライス欲を充分に満たしてくれる味わいです。食欲性欲オムライス欲で生きていこうと、思いました。
先ほど“分かりやすい”という表現をしましたが、当然ながら人それぞれ好みがあり、風味を重視する人もいれば、とにかく辛いことを重視する人もいるでしょう。自分はやはり、“分かりやすい”味が好きなのです。
ケチャップというのはその代表格です。
幼少期、よくケチャップを飲んでいました。赤くてドロドロしていて、そのまま飲むと当然濃いです。しかし三口ほど飲むと、不思議な満足感に包まれます。実家では親が家を空けている時間が長く、提供される食事量と子供の食欲が見合っていなかったのでしょう。幼い頃の自分は、そんな感じのジャンクな食事ばかりしていた気がします。
つまり!自分にとってケチャップは母親の味。何とも懐かしい味わいなのです。
思い返すと、私の敬愛する桐野夏生の小説においてこのような記述がありました。
ワタナベも、飯よりパンの方が好きだった。ただしワタナベは、バターでもジャムでもマーガリンでもマヨネーズでもなく、食パンの表面にスプーンの背面を器用に使ってケチャップを塗りたくったものを好んだ。というより、それが子供の頃のワタナベの常食であり、味覚の原点だった。
無人島に漂着した男女(そのうち女性は1人だけ!)の奇妙な生活を描いた『東京島』という作品の一節です。
このワタナベとはケチャップパンを常食とするような貧困家庭の出身であり、言語能力が乏しく、島内で嫌われている存在です。そんな彼がとある漂着者の日記を読み、かつての食生活を思い起こしているシーン。ケチャップにまつわる記述はもう少し続きます。
…ケチャップの甘みと酸味を蘇らせ、次いで、薄暗く寒いアパートの部屋で、袋に数枚残った食パンを、三歳半年下の弟と奪い合い、カゴメケチャップのチューブを絞ってパンになすり付けている子供時代の悲しい記憶を呼び覚ました。その時の侘びしさと歓喜の味覚を思い浮かべるうちに、ワタナベの性器は勃起したが、射精までは行かなかった。
当然ですが無人島にはケチャップなどありません。薄暗いアパートで、食パンにケチャップをなすり付け、食べる。このような記憶が、ワタナベにとっては勃起するほど尊く、原風景的なものなのです。
なんというノスタルジー。「ファストフードなんて美味しくないよ」と言う人々には分からない感覚と言えるでしょう。モサモサの食パン、冷えたケチャップ、口いっぱいに“ケチャップ味”が広がります。桐野夏生は天才です。
「分からない人には全く分からない」という点で考えた時、とてもしっくりくる曲があります。もう一つ引用させてください!
皆よりも俺の家は汚くて狭い
テレビとかで皆言ってる「お金よりも愛」
お金持ちにカップラーメンのうまさ分からない
白いご飯に醤油かけて食べるのもうまい
家に誰もいないとき 犬のプーとお散歩
五丁目公園で遊ぶ 滑り台とブランコ
おなかすいて万引き なんてこともしちゃいそう
(MOON CHILD feat.KOHH/ANARCHY)
かの偉大なラッパーANARCHYと、世界からも注目されるKOHHのコラボ楽曲からの一節です。団地、母子家庭、貧困、そのようなテーマの1曲なのですが、「お金持ちにカップラーメンのうまさ分からない」「白いご飯に醤油かけて食べるのもうまい」このリリックは圧巻、痛快であります。醤油かけご飯は、KOHHの家庭環境の困窮を表しつつも、どこか寂しげなノスタルジーを与えてくれるのです。
あらゆる作品というのは、欠乏から始まると考えています。不幸な時こそ、何かが欠けている時こそ、その何かを埋めるための作品が生まれます。満足に食事のできない家庭環境を肯定する訳ではありません。むしろ自分の中で“機能不全家庭”というのはめちゃくちゃ批判の対象であり、考え始めるとかなり辛いです。
しかしワタナベのケチャップ食パンも、KOHHの醤油かけご飯も、恐らく他に代えることの出来ない味覚なのです。
とにかく自分も、ケチャップを飲んでいた人間にしか成し得ないことを、どうにか成し遂げたいものです…。
皆さんも出血多量には気を付けましょう。 (スプラッタ映画のオファー、お待ちしております!)